医者時代 前史〜1893年
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安政4年6月4日(1857年7月24日)、陸中国胆沢郡塩竃村(現・岩手県奥州市水沢区)に生まれる。明治維新の“賊軍”の地、東北・水沢で、質素ながら学識高い武家に生まれた後藤新平は、遠縁の高野長英の存在を心に抱きながら、幼少時から漢学を学ぶ。1869年、胆沢県大参事に赴任した安場保和に才能を見出され、安場と部下・阿川光裕の支援のもと郷里を離れて須賀川医学校に学び、科学的な思考法をわがものとする。
1876年、愛知に転任した安場・阿川を追うように、新平は愛知県病院に赴任する。しかし後藤の目は、個人を対象とした医学を超えて、社会全体の「衛生」(生を衛ること)に向けられていた。一時は病院を離れ西南戦争凱旋兵の検疫に従事、復帰後は次々と建白書を提出、私立衛生会の前身・愛衆社の創設に着手するなど、後藤の存在は、いつしか中央政府の内務省衛生局長・長与専斎の目にも止まるようになっていた。1882年、岐阜で暴漢に襲われた板垣退助の治療のため県境を超えて急行した後藤に、板垣は「医者にしておくには惜しい」と呟く。以後、板垣の予言をなぞるように後藤の活躍は続く。
1883年、長与専斎の命で衛生局に採用、また同年、安場の次女・和子と結婚する。公私ともに足場を固めた新平は、代表作『国家衛生原理』(1889)をまとめ、さらに念願のドイツ留学を果たす。コッホ、北里柴三郎らと共に最新の医学に接し、ビスマルクの社会政策を目の当たりにして92年帰国した後藤を待っていたのは、内務省衛生局長のポストであった。
衛生局長時代 1894〜98年
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内務省衛生局長となった後藤新平は、明治中葉の世を騒がせた相馬事件に法医学の立場から関与する。持ち前の情の深さから関わりを深め、やがて自由党首領で相馬家の弁護士星亨や外相陸奥宗光の圧力により拘留、職を解かれる。裁判を闘いぬき無罪を勝ち取ったが、この人生の挫折への反省と「不倒翁」の精神は以後の人生を支える原点となった。
1894年、牢を出た後藤を待っていたのは、日清戦争からの大量の凱旋兵の検疫事業だった。瀬戸内海の三つの島に巨大な検疫所を短期日に建設し、コレラの侵入と戦うという、空前の難事業だったが、後藤は文字通り不眠不休の取り組みの末、遂に成功させる。その背景には、後藤の力を見抜いて任せた上司・児玉源太郎少将の絶大な信頼があった。かくして後藤は内務省衛生局長に復帰し、児玉と後藤との間には深い友情の絆が結ばれる。
復帰後の後藤は、ビスマルクに学んだ社会政策の実現に邁進する。北里柴三郎の伝染病研究所の国有化、恤救基金案・法案、救貧法案、監獄衛生制度意見書など、立て続けに元勲伊藤博文への建白や議案を提出したが実現に至らない。しかし、時代は後藤新平を求めていた。日本政府は、日清戦役で台湾を獲得したものの、阿片の習癖、島民の叛乱、群賊の横行に手を焼いていた。ここに斬新な阿片政策を建白したのが後藤だった。これが取り上げられ、後藤は桂太郎・伊藤博文とともに台湾を視察、台湾統治法を建議し、台湾島という波乱万丈の舞台のとば口に立つ。
台湾時代 1898〜1906年
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総督児玉源太郎に抜擢された後藤新平は、1898年から足かけ9年間、民政局長として台湾に上陸した(のち民政長官)。炎熱と熱帯病の貧しい地、複雑な人種と種々の異言語、土匪の横行する“水滸伝”的世界において、後藤の“無方針の方針”による統治とはいかなるものだったのか。
まず、総督の絶大な信頼の下に、総督府のリストラと組織改革を断行、後藤は若い人材を抜擢した。そして財政を緊縮しようとする本国との悪戦苦闘の末、台湾事業公債発行と台湾銀行創設に成功、その資金により土地調査、縦貫鉄道敷設、築港、さらに阿片・樟脳・食塩の専売事業を立ち上げる。その間、匪賊を投降させて鉄道・道路・郵便事業に従事させ、日本軍部との葛藤のなか、水力発電の確保、市街地整備、上下水道・衛生制度・学制の確立など近代化を強力に推し進めた。台湾のインフラストラクチャーとして、今日に引き継がれ発展している面も大きい。
台湾は、対岸の清国領土福州・厦門の経済圏に含まれたが、そこは列強の跳梁する地域、したがって台湾統治はすなわち対岸政策であった。義和団の乱の波及もあって一時は台湾から陸兵派遣寸前という事件もあったが、後藤は樟脳事業や鉄道敷設という経済中心の対岸政策を進めた。
土匪問題が一段落して、新渡戸稲造を伴った六ヵ月間の外遊の後、日露戦争を経て、満洲が新たな新天地として浮び上がった。そして、日露戦争で参謀次長として活躍した盟友児玉大将の思いがけない急逝が、後藤を満洲の荒野へと押し出すことになる。
満鉄時代 1906〜08年
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日露戦後のポーツマス条約で、日本は東清鉄道や撫順炭鉱など満洲(清朝東三省)の権益を獲得、その運用のため南満洲鉄道株式会社(満鉄)を設立する。1906年、その初代総裁に任命されたのが後藤新平であった。しかし満洲の地は、日本の外務省や関東州都督府、満鉄と、清国の東三省総督や巡撫とがせめぎあい、ロシアの影響も色濃く残り、列強の強い注視にさらされていた。
国内外の勢力が拮抗するなか、後藤は、東亜経済調査局、中央試験所、そして世界水準のシンクタンクとされる満鉄調査部を設立し、総合的調査に根ざした満洲経営を遂行する。外債政策により捻出した経営資金を元手に、優秀な「午前八時の人間」を抜擢、副総裁中村是公以下八人の理事を縦横に使い、満鉄軌道の広軌化を一年で実現、鉄道駅を中心とした長春などの広大な都市群やヤマト・ホテルの建設、巨大な大連築港、旅順工科学堂・南満医学堂といった教育機関の創設など、八面六臂の活躍をする。
その中でも、後藤の眼は常に世界情勢に向けられていた。「文装的武備」を旗印に満洲ひいては清国・アジアの安定を模索する一方、勃興著しい新大陸アメリカを、ユーラシアの連繋により牽制する「新旧大陸対峙論」を打ち出す。その実現への熱意は、当時韓国統監であった元勲伊藤博文を動かすことになる。1909年10月、ロシア蔵相との会談にハルビンを訪れた伊藤は、会談を終えた後、凶弾に倒れるのであった。
第二次桂内閣時代 1908〜16年
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1908年7月、後藤新平は、満鉄を逓信省管轄下に置くことを条件に、満鉄総裁から第二次桂太郎内閣の逓信大臣に転ずる。3年の任期中、日清・日露戦争後の極度の財政難の下で、後藤は辣腕を揮って逓信省の組織を大改革し、郵便・電話・電信・海運などの法整備と新制度の導入、水力発電調査等を進める。また新設の鉄道院(現JR)初代総裁として、組織を再編改革し、現業員の意識を高揚させて国有鉄道の基盤を固めるとともに、軌道広軌化を推進する。
1911年、桂内閣は総辞職、後藤は野に下る。しかし前年の日韓併合、翌年2月の清朝滅亡を経て、大陸は混乱の度を増す。1912年、後藤は東アジアの平和への秘策を胸に桂と共に欧露へと旅立つ。だがサンクト・ペテルスブルグに着くや、明治天皇の死によって帰国を余儀なくされる。桂は、内大臣を経て第三次桂内閣を樹立、後藤も逓相として入閣するが、折しも湧き起こる護憲運動の嵐に、あえなく瓦解。旧来の党弊を超えた超党派的政党の必要を感じた後藤は、桂を促してその新党構想を支援するが、桂の死を契機に訣別する。
1914年4月、大隈重信内閣が成立。7月に第一次世界大戦が勃発すると日本も参戦、翌年1月には大隈は21ヵ条要求を中国につきつける。在野ながら常に大陸に目を向け、日中合資の金融機関創設を模索していた後藤は、これを失政として大隈を罵倒、貴族院で論戦を挑む。かくして1916年10月、大隈内閣は総辞職。政界には後藤新平への追い風が吹きはじめる。
寺内内閣時代 1916〜18年
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野にあって大隈内閣打倒を目指した後藤新平は、1916年10月、寺内正毅“超然内閣”樹立に成功し、自ら副総理格の内相兼鉄道院総裁に就任する。外交刷新、予算編成や財政計画に取り組み、内務省改革や警察官増員などを行った。議会では、加藤高明率いる憲政会の攻撃の矢面に立つ一方、鉄道広軌化を閣議決定にもちこみ、解散後の総選挙にも政友会や国民党と結んで勝ちぬいた。
直面する最大の課題は外交問題であった。第一次大戦にいよいよ米国が参戦、ロシア革命によりソ連政府が成立するなど、世界情勢が混迷を深める一方、中国大陸では北京政府と南方政府との争いが続く。さらにソ連と結んだドイツの東漸が予想され、シベリア地域が風雲急を告げるなか、独ソを挟み撃ちしようとする英仏伊三国から、日米に対しシベリア出兵を強く要請される。既に原敬や犬養毅らとともに臨時外交調査委員会を立ち上げていた後藤は、1918年4月、外務大臣に転じ、北京政府と軍事協定を結んで中ロ国境のおさえとしつつ、米国と出兵問題について意見交換を重ね、欧米の利害が東アジア地域に集中しつつある国際情勢のなか、シベリア出兵促進の意見書を提出する。
1918年8月2日、政府はシベリア出兵を宣言。直後から米価騰貴が激化し、8月5日、ついに富山県を皮切りに各地で米騒動が勃発。首相の病もあり、9月21日、内閣は総辞職する。そして11月11日、休戦条約が成立、三年余にわたった第一次世界大戦は終結することになる。
東京市長時代 1919〜23年
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1919年3月、後藤新平は新渡戸稲造らと共に、第一次世界大戦直後の欧米視察に旅立つ。米国ではフォード、バーバンク、エジソンら著名人と会見し、商務省標準局を見学する。欧州に渡ると、英国ではジョージ五世に拝謁しハウス大佐と面談、仏では外相ピションを訪問、西部戦跡を見て、ベルギー皇帝から勲章を親授される。米国に戻る船中でフーバーと会談、前大統領タフトを訪問するなど、実り多き238日間の旅路を経て、11月に帰国する。
後藤はこの欧米視察を経て、大戦後の熾烈な市場競争で日本が生き残るには科学と情報が決定的と確信する。世界中に網を張り、中枢で産業参謀本部の役割をになう大調査機関を構想した後藤は、その設置につき首相原敬と交渉、原も必要性を認め政府案を作るが、後藤はそれが小規模で官僚的と見て拒否する。
1920年、東京市長が汚職事件で辞任、後藤に後任の白羽の矢が立つ。市長として改革に乗り出した後藤は、吏員・教員の大量リストラなどを次々に実施、東京改造八億円計画をぶちあげ、米人ビーアドの助言と安田善次郎の寄付のもと東京市政調査会を設立する。
市長就任の年、大陸では尼港事件が発生、日本は北樺太を保障占領する。この問題をめぐる日ソ長春会議は決裂、ソ連極東全権ヨッフェは上海で孫文と会見する。後藤は中ソの接近に危機感を覚え、1923年には、ヨッフェを日本に招き日ソ協調の道を探る。市長を辞任した後藤は、日ソ問題に専念し、日ソ漁業条約の調印にこぎつける。
「政治の倫理化」時代 1923〜29年
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日露国交に向けて、ロシア極東大使ヨッフェとの非公式予備交渉に、一私人として臨んでいた後藤新平は、日露交渉を政府の手に移すが、結局、交渉は打ち切りとなり、ヨッフェは帰国する。後藤が夏季大学の講演から戻った直後、加藤友三郎首相が死去、大命は山本権兵衛に下った。
組閣に入ろうとした大正年9月1日、関東大震災が帝都を襲う。翌日、山本内閣が成り、後藤は内相として入閣、猛烈な勢いで罹災民救済と復興計画に没頭、復興院総裁を兼任し、復興予算30億円を見積もって新帝都建設に意欲を燃やすが、さまざまな抵抗に遭って3億4000万円に削られ臨時議会を通過する。
その直後、虎ノ門事件が起こり、山本内閣は引責辞職。下野した後藤は少年団の育成や東京放送局(現・NHK)の創立に総裁として活躍する。昭和元年2月の最初の脳溢血が癒えた頃、第51議会の混乱を見て、政治の倫理化運動を志し、全国津々浦々で講演、小冊子『政治の倫理化』百万部を刊行する。
昭和2年8月の二度目の脳溢血を経て、訪露を決行する。モスクワではスターリンほかソ連首脳と会談、日露漁業協約成立にも尽力する。帰国後、国民への遺言となる三大政策を斎藤實らに託す。岡山の講演への往路、列車内で三度目の脳溢血を発し、昭和4年4月13日、京都の病院で亡くなった。享年71。幕末から昭和初頭にかけて怒涛のように生きた快男子後藤新平は、今、東京青山墓地に和子夫人とともに眠っている。
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